| 汗だくReviC/12D「これが俺の眼だ」〜ヒコーキ乗りのリンク集は紺碧の空を見つめている。そこは宇宙の青に続く場所・・・。 | |
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汗だくReviC/12D「これが俺の眼だ」〜ヒコーキ乗りのリンク集
| 〜昔のヒコーキ乗りは照準器を大切にしたものだ。それはパイロットの生命を守ってくれるもの、自分の眼のような存在なのさ〜 |
| 生きるうえで、思い出は必要である。映画「Bレードランナー」の劇中に登場するRプリカントを吉祥寺の単館上映で見たときにそう思った。当時中学生だった私は漠然とそうだと思った。20代に読んだ心理学のエッセイの数々にもそう書き綴られていた気がする。 しかし自分の周りには20代で「昔はよかった〜」とぼやく友人がたくさんいた。なんて年寄りぶっているんだ、そんなところで自分は色々と人生を生きてきた大人なのだと大人ぶる態度が許せなかった。 自分は昔は良かったと思ったことがない。思わないようにしている傾向も否めないが、結構思わないほうだと思う。今がいい。昔を積み重ねたから今がある。考え方や物事の処理の仕方が昔より上達しているはずだ。金銭的・体力的には衰えていくだろう。しかしセンスやタイミングやバランスを整える技術は向上し続ける。 しかし現実はシビアな面もある。友人は結婚をし、昔のように自由には々会うことはできなくなる。異性との接点も比例的に機会が少なくなっていくだろう。この状況に直面したことを自覚したとき普通、人間はある種の悲壮感に苛まれる。喪失間と焦燥感が一挙に襲ってくる場合もある。 私は馬鹿なのか、思春期のころからこの感覚に疎い。何の根拠もないのに「そのうち良いことがあるだろう」などと思う(そう思いながら独身のままここまで来てしまったわけだが・・・)。 しかしこれはどうしようもない。無理をすればかえって逆効果、自分が不自然になり、今より考え方や行いの質が下がるだけだ。今やっておくことがある。そんな自分に対する使命感のようなものがある種の孤独をウキウキさせてくれる要素になる。 それでも寂しい時はある。人によっては犬・猫に愛情を注ぐ場合もあるだろう。本気で昔の方がよかったと思う場合、回想の世界にに行ったきりになってしまう人もいる。私はそんなとき、やはり思い出に助けてもらうことが多い。けれどかなり客観的に捕らえているつもりだ。断っておくが一番良くて楽しいのは現在だということが大切。その上で自分の過去や思い出を断片的に回想する。 なるべく楽しいことがいい、それをまるで他の映画監督が撮った映画のように回想する。もちろん正確な記録ではないし、長い時間を隔てているので、多少自分に都合よく変更される部分も多い。再上映するたびにちょっとずつ変わるのは人間における脳記憶の構造上仕方のないことらしい。そして、自分はこんなにも楽しかったし恵まれていた、それはとても幸福なことでラッキーな経験をしてきたのだと思いっきり自覚するのである。その自分がセンスや考え方を更に磨き、社会と接してゆこうとするのだから、これからも楽しい事がたくさん待っているに違いないと考えるのである。 思い出は人生の主食ではない。なんとなく口寂しいときにつまむビスケットのようなものだと思う。もしかしたらそれがなくても肉体という生命は維持できるかもしれない。しかし人間らしい生命を維持するためにはこのようなおやつは必要だと思う。親・友人・恋人それから一期一会だった人に、自分が愛し愛され、優しくしあえたことは、ある隙間を埋めてくれる財産だといえる。 できれば長生きをしたい。心も体もなるべく清潔な老人になりたい。そんな老人が天命を全うするまでに命をつなぐ術はやはり現在に繋がること、そして思い出を大切にすることだと思う。 良い思い出なんて本当は無いのかも知れない。ほとんどは欲と恥の歴史だったりする。けれども自分に関わってくれた人達に感謝したい。怒ることもあるだろうが、長い時間の中でそれはあまり長続きしない。心身ともに清潔でいたいと思うので自然とそうなるのかも知れない。 ありがとうと言おう。何に?誰に?わからない、漠然と。こんなとき自分の脳内で幸福ドーパミンがちゅるちゅる分泌しているのかなと思う。思い出よ、縁があったらまた逢おう。幾度も、幾度も・・・。 |
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